一日は長し、一生は短し

2008.03.12

修二会

 修二会と書いて「しゅにえ」と読む。毎年3月1日から14日まで、奈良東大寺二月堂で行われる通称「お水取り」のことである。これが終わると春がくる、と京都や奈良では言うそうだ。

 一昨日、僕は生まれて初めて、この「お水取り」を見学に行った。見学といっても、修二会で行われる数々の練行を見られる訳ではなく、燃え盛る6メートル程の長さの松明を持った練行衆が、二月堂の正面回廊を駆け抜けて、回廊の角でグルグル振り回す荒行を見学するのである。

 燃え盛る松明を振り回せば、火の粉は飛ぶは、火のついた杉の小枝が塊となって飛び散るはで、近くで見学している人々目掛けて降り注ぐ。それを浴びれば無病息災で1年間過ごすことができるということらしいが、服は火の粉で穴は空くし、髪が一部炭になることもあるらしい。(よく建物が燃えないなあ・・・)

 僕はそんな事知らずにスーツ姿で見学していたが、幸か不幸かすごい数の見学者で、火の粉が届く位置からは遥か後方で、一張羅のスーツを焦がさずに済んでしまった。そんな訳で、この先1年は無病息災の権利を勝ち取る訳にはいかなかった。

 この行事は、東大寺が開設された西暦752年(最近、小学生の娘が日本史の勉強をしている時に出てきて、ちょうど憶えたところだった)以来、1200年以上一度も中断することなく続けられてきているということだ。豊丸産業はもうすぐ50年になるが(比較するのもなんだけど)、なんとすごい歴史を作ってきたものだろう!と心から感嘆してしまった。

 松明を全部で10本(メインの12日は11本)使ったこの行の後、我々は二月堂本堂に案内された。中では薄明かりの中、恐らくかなり高位の住職が読経しており、短い時間ではあったが、座ってそれを聴かせて頂く機会を持った。そうすると、この二月堂の荘厳な雰囲気も手伝って、心がすうっと洗われる気持ちになり、同時に、この世に生を受けたありがたさや責任の重さを考えさせられた。

 この修二会に限らず、日頃の生活とは次元の違うところに身を置く事で、普通に感じていることが違ったものに見えてくる。たまには、そういう機会を作って、自分の人間力を磨いていかなくてはいけないなと思う。

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