一日は長し、一生は短し

2008.10.10

論理より情緒

 一昨日、行徳哲男という得体の知れない(知らないのは自分だけかもしれないが・・・)おじさんの講演を聴いてきた。僕も正真正銘のおじさんだが、このおじさん、歳は75歳ということだが、法衣を身にまとい下駄履きという出立で、背筋もしゃんとして声も大きく、とてもそんな歳には見えない。

 1年の大半を箱根の山に篭って過ごし、世間との連絡は一切絶った生活をされているということだ。そんな訳でご自身のお父さんが亡くなられた時も、山を下りて初めて知ったそうだ。こんな話を聞いただけでも、この人ただ者ではないと誰もが思うだろう。

 政界・実業界・芸能界にも人脈が広く、元テニスプレイヤーの松岡修造さんの仲人もされたそうだ。そう聞くとうなづけるのが、松岡さんってすごく前向きな方だと思うが、この仙人のような行徳先生は、それ以上に明るく前向きな人である。

 その行徳先生は、社会奉仕の一環として刑務所を回って、受刑者の心の洗濯をされているそうだ。大勢の受刑者を前に、いろいろな話を聴かせていらっしゃるそうだが、先生がこんなことを言われていた。「人間なら過ちを犯して当たり前。人間は挫折があるから美しくなれるのだ。」

 若気の至りとして過ちが許される時に、小さな失敗を繰り返してそこから学ぶ。それがあるから人の痛みがわかるということだ。本当にその通りだと思う。言葉では理解しても、経験に優ることは絶対にありえないだろう。

 「考えて解決することは何もない。問題を解決する方法はただ一つ。豊かな感性を以って行動することだ。」行徳先生の言葉であるが、先の先まで考え過ぎて、なかなか一歩を踏み出せない自分にとって、大いに反省させられる言葉である。

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