一日は長し、一生は短し

2012.08.09

平和の象徴

ロンドンオリンピックも後半に入り、メダルを取ったり取れなかったりの一喜一憂の中に、改めてスポーツの素晴らしさに感動する毎日である。

異なる人種、異なる文化、異なる価値観の選手たちが、国を代表して競い合うシーンの背景には、応援団と共にそれぞれの国旗が数多くはためいているが、何故か勝負が終わった後の選手の姿に、国家を背負ってというよりは、一人の人間としての生き様を強く感じる。

 4年間かけて、いや、その前から何年も、この舞台に立って活躍することを目標に、人生の大半の時間を費やして努力してきたのは、選手自身であり、コーチや家族や仲間である。勝っても負けても感動を与えてくれる選手に敬意を表したい。

 さて、オリンピックは、「平和の象徴」と言われるが、近年の参加国の増加を思うと、「平和の大切さを確認する機会」と言ってもいいと思う。オリンピックの歴史を見れば、その開催時が平和だったのか、そうではなかったのかは一目瞭然である。

 つまり、世界中の多くの国が参加する限り、概ね世界は平和な状態だと言える。これから将来に渡り、そうあり続ける限り、世界の平和維持に繋がるし、莫大なオリンピックの事業費も、平和の為のコストと考えれば納得できる。

 ところで、パチンコも同様のことが言える。パチンコの歴史を振り返ると、昭和初期から普及し始めたパチンコは、その後日中戦争から太平洋戦争に至る過程で禁止され、戦後に再開されるまで全面禁止となっていた。そもそも、戦時下にあっては、パチンコは不要不急の産業という訳だ。

 しかし、戦後の日本の高度経済成長と共に、国民の余暇の一担い手として、パチンコ産業は成長を続けることとなった。つまり、今日に至る日本の平和の背景には、いつもパチンコがあった。もっと正確に言うと、平和な日本の背景に娯楽があった。その娯楽を代表してきたのがパチンコということである。

 但し、娯楽はあくまでも余暇の担い手である。国民の余暇を埋め、勝っても負けても楽しんでもらうことで、精神的な健康(ある面、肉体的な健康)を増進していく役割を果たしていければ、まさにオリンピック同様、「平和の象徴」と称されるようになるのではなかろうか。

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