一日は長し、一生は短し

2012.09.24

銀の匙

 灘中学、灘高校。ご存知、東大合格者数日本一の常連校である。その名門校の伝説の国語教師、橋本武先生が、中学の3年間、この一冊だけを教材に授業されたのが「銀の匙」(中勘助著)だ。

 橋本先生に関しては、小学館より発刊されている「奇跡の教室」(伊藤氏貴著)に詳しく書かれていて、「銀の匙」を読んでみようと思ったのは、この本がきっかけだ。

 物語は、明治時代のある少年の幼少期から、淡い恋心を持つようになる少年期までのさりげない日常を描いた作品で、解説によると、その独創性や描写の美しさに夏目漱石が絶賛したということだ。

 こんな名作を、しかも灘では3年掛けて読みこなす作品を、出張の道中に流し読みしている自分が紹介するのもおこがましいが、人里離れた温泉にひとり浸かり、煩雑な仕事に追われる日々を忘れて、森の木々や鳥のさえずりに心を洗われるに似た幸福感を、読み終えた後に感じたということをまずお伝えしたい。

 中勘助という作家は、もともと詩歌を愛読し散文を顧みない人で、自身の世界観を長詩で表現する事に苦心しながら、その後それを断念し散文に転じたそうだ。当初は屈辱感すら持っていたようで、その最初の代表作が「銀の匙」である。

 さすがに詩歌に長けた人だけあって、ひとつひとつの文章の豊かな表現に、無意識のうちにその情景が絵として浮かび上がる。まるで絵本を読んでいるような錯覚にも陥る文章の美しさと奥深さがある。

 そう感じるのは、文章の表現力の素晴らしさだけではなく、作品の中に頻繁に出てくるさまざまな植物や動物や風物が季節感を演出していて、それがさらに描写の厚みを増す作用に繋がっているように思う。

 読後に同じような気持ちになった本で、著名な心理学者である河合隼雄さんの「泣き虫ハァちゃん」があるが、どちらも大人になってから著された作品であり、著者自身が子ども時代に立ち返り、子どもの持つ感性のまま、子供の世界を描いているという点に共通性を感じた。

 こういう作品は、読み返す度に味わい深くなるが、大人の生活に慣れてしまった自分がすっかり忘れかけている、子どもなら当たり前のように持っている素直さや勇気や羞恥心を思い起こさせてくれる。たった一度の人生、真に厚みのある人生を送るためにも、時々読み返したくなる、いや読み返すべき名著である。なるほど、知る人ぞ知る名作と言われる所以だ。

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