一日は長し、一生は短し

2012.10.19

無手の法悦(むてのしあわせ)

 朝夕めっきり冷え込んできたせいか、布団を蹴散らかせて寝ている我が家のお子達は、少々風邪気味だ。

 何とか続けている夜のランニングも、さすがにTシャツと短パンでは冷えた空気が身に染みるし、少々この時期のスタイルとしては恥ずかしくもある。

 そう思い、箪笥の奥を探してみても、出てくるのは山登り用のヤッケだったり、時代遅れのスキーウェアだったり、かび臭いラガーシャツだったり、パリパリになったゴルフ用の雨具だったり。

 どれもこれも、最近のランニングファッションの格好よさには程遠いし、それより何より着心地が悪い。スポーツデポに仕入れにいかなくてはである。

 さて、人間生きていれば楽しいことばかりではない。イライラしたり、悲しかったり、思い悩んだりの日々を過ごすこともある。いや、楽しい時を過ごすより、そういう日を送っている方が多いかもしれない。

 自分の為に他人がやってくれたのに、自分が望まないことだと腹を立てたり、渋滞にはまり怒りの矛先がなくイライラしたり、時に自分の不幸を嘆いたり、そういう風に思ってきた自分が恥ずかしくなる本を紹介したい。

 芸妓として活躍し、将来を嘱望されていた17歳の時、当時の世間を震撼させた事件「堀江六人切り」の惨禍に遭い、両腕を切り落とされたにも拘らず、絶望を乗り越え、身体障害者に夢を与え続けた大石順教尼の自伝が「無手の法悦」(春秋社)である。

 身体障害者の母として、また京都山科の仏光院の開祖として、戦争や事故等で手足を失った人々を絶望の淵から救い、人生に希望を与え続けたひと。どんなに辛い事があっても、前向きに生きることで活路が見出せる事を、自らの体験を通して語り続けたひと。

 順教尼のすごさはそれだけではない。両肩から先が無いにも拘らず、普段の生活で人に世話を掛けることがない。また、口にくわえて書く筆は、健常者をはるかに凌ぐ絵と文字を著す。

 先生はこう言う。両手が無いから見えるものがある。無い事を嘆いていても仕方がない。できるか、できないかではなく、やるか、やらないかの決断次第で活路は開かれる。

 頭を金鎚で叩かれた思いで、一気にこの本を読んだが、自分の驕りや努力不足や甘えを反省して止まない。周りがあっての自分を教えてくれる至極の一冊である。

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