一日は長し、一生は短し

2013.01.28

夜と霧

 何年か前、朝トイレで小用を足していたら、突然、下腹部に激痛が走り、そのまま寝室に戻って布団の上でもんどりうっていたところを救急車で運ばれた経験がある。

 CTを通しての診察結果は「尿路結石」だったが、話には聞いていたものの、いざこれに襲われてみると、言葉では言い表せないほどの爆痛だ。

 写真を見ると、左側に小粒のA君、右側に大粒のB君がいて、その時は、小さいけれどやんちゃなA君が暴れたようだ。

 ところが、つい先日、普段はおとなしい大粒のB君が、少々座り心地が悪かったのか、朝、小用を足していたところ、「よっこらしょ」と少しお尻の位置をずらしたようだ。

 その日は、どうも朝から腰が痛くて、ひょっとしてヘルニアでは?と思っていたところ、その痛みは下腹部まで拡がり、忘れもしない「あの激痛」が甦ってきたではないか!

 しばらく足をバタバタさせながら、仰向けになったりうつ伏せになったりして痛みを堪え、そのまま1時間ほど経過すると、何事も無かったかのようにそれは引いていった。

 そんな訳で、A君・B君兄弟を体内に宿しての不安な日々であるが、その程度の痛みでガタガタするんじゃねえ!と一括されそうな本を今回は紹介したい。

 「アンネの日記」と並ぶ、ホロコーストをテーマとした永遠の名作「夜と霧」(著者:フランクル、みすず書房)。以前から読もうと思っていたがその機会がなく、ある日、いつもの書店に平積みになっていたのを見つけた。

 訳者の異なる2冊を購入し、1冊はドイツ文学の翻訳家である池田香代子氏のもの(2002年初版)、もう1冊は哲学者であり心理学者の霜山徳爾氏(故人)のもの(1956年初版)を順番に読んだ。

 前者は文学性が高く、残虐なシーンについても、文章表現の美しさを感じるものであり、後者は著者のフランクル同様、心理学の専門家らしく、事実をストレートに伝える硬派な表現で、同じ原作でも訳者によって随分趣が異なるものだと思った。

 さて、内容についてであるが、ナチスドイツによる「夜と霧作戦」の下で行われた数々の非人道的行為についてというのは想像できるし、この歴史上類を見ない悲惨な事件については、本書だけではなく数多く出版されていている他の本にもっと詳しく書かれている。

 それらの本とこの本の違いは、普通に生活していた人々が強制収容所に連行され、人としての尊厳を全面的に否定され、精神的・肉体的に過酷な状態の中で、どのように希望を失い死を迎えるに至るのか。また、絶望の中で、何に希望を見出して、生きる気力を保っていくのか。それを実際に収容所生活を送った著者が、心理学の観点から分析して著した点である。

 収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれたり、できることは苦痛に耐えることしかないという絶望的な状況にあっても、うちに秘めた愛する人の眼差しや面影を思い浮かべることで至福を感じる事ができる。

 著者のフランクルが言うとおり、人は愛によって希望を見出すことができるというのは本当だと思う。何も夫婦の愛だけではなく、家族愛や隣人愛や社会愛も困難を解決するであろう。不朽の名作と評されるこの本を、是非読んでいただきたいと思う。

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