一日は長し、一生は短し

2013.07.26

ならぬことはならぬ

今年のNHK大河ドラマは、我が母校、同志社の創設者である新島襄先生の妻、新島八重さんの生涯を描いた「八重の桜」だ。旧姓を山本と言い、実兄は山本覚馬。会津藩の鉄砲師範の家に生まれ、幕末から昭和初期までの激動する日本を生きた烈女である。

さて、そんな八重さんが青春時代を過ごした場所を訪ねない訳にはいかないということで、先週、某コンサルタントの経営者向けの研修で会津若松を訪問する機会があり、大変中味の濃い二日間を過ごしてきた。

まず、初日の訪問先は「日新館」。そのコンサルタントの先生の教え子が、現在、本業の傍ら「日新館」を経営されているそうで、今は会津の武士道を伝える体験型の観光施設となっている。同校の教育水準は、当時、全国でトップクラスだったそうで、白虎隊士はじめ多くの偉人を生んでいる。

会津藩では、藩士の子弟は6歳になると、「什の掟」という規律を徹底的に叩き込まれ、10歳になると全員が日新館に入学し、論語の素読は勿論、中国古典、武道、水泳、天文等を学んだそうだ。その中で「忠誠、礼節、誠実、正義、思いやり、品格」の精神を育み、それが徳川幕府への忠誠心となり、新政府軍に対して最後まで徹底抗戦する礎となった。

明治以降、日本の歴史は会津藩を賊軍として扱い、今日まで正しく紹介されることはなかったようで、今年の大河ドラマで初めて会津の正義が伝えられたそうだ。勝てば官軍、負ければ賊軍というのは世の習いで、内外問わず紛争や政争も然り、ビジネスの世界でも同様のことはある。

翌日は朝一番に、宿泊先から白虎街道をテクテク歩き、白虎隊の自刃の地である飯盛山を訪ねた。ご存知のように白虎隊は、16歳17歳の若い隊士で構成された部隊で、新政府の大軍の進撃を食い止めるべく果敢に戦うものの、最後は敗走して飯森山に立てこもり、燃え盛る鶴ヶ城を見て、「義に死すとも不義に生きず」の覚悟を以って全員で切腹することとなる。

飯森山は、山というより小高い丘のような場所だ。前夜降った雨のせいか、透き通るような空気の中、白虎隊士が最後に眺めたであろう会津の町を眺め、自刃の場所に立ち尽くして自分の若かりし頃を振り返ると、反省させられることばかりが思い出され、申し訳ない気持ちで一杯になった。

たった二日間ではあったが、会津の魂を感じる場所を訪問し、また現代にその魂を伝承する何人かの人の話を聴いたりし、その上で経営者としての心構えを勉強して、いつもとは一味違った気持ちの張りができたように思う。

とはいえ、こういう体験を一時の感動だけに終わらせないよう、「ならぬことはならぬ」と自分に言い聞かせ、社員と一緒に一流の会社作りを目指したいと思う。

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